2019年01月23日

1月23日 幕末の志士 清河八郎  いつもと違う鳥海山


今日も悪天候のためその姿を見せてくれません   秋の鳥海山 (富士山の様に見えます)

        【 幕末の志士 清河八郎 】
       

    18歳で江戸に出て東條一堂塾・安積良斎塾・湯島聖堂・などの当時の最高学府
 
    に学ぶ(東大の前身)剣は千葉周作の玄武館に学び北辰一刀流兵法免許を得

    弱冠25歳で神田に清河塾を開いた。江戸広しといえども、文武両道の塾は清河塾

    ただ一つといわれた。

    清河塾には憂国の士が集まり、尊王攘夷の志のもと山岡鉄舟らと「虎尾の会」を

    結成、のちに 「浪士組」を結成する。八郎の死後浪士組が新撰組と新徴組に分かれてゆく

    明治維新は薩摩・土佐・長州・関西雄藩の志士により進められたものであるが、

    八郎はこれらの志士に先駆けて常にその主導的活躍をした主役であった。


    【八郎と妻・お蓮】

    お蓮は医者の四女として生まれたが、家が貧しく幼くして養女に出され、17歳で

    遊郭に売られた。

    八郎が同士 安積五郎をつれ江戸から清川に帰郷していた時、湯田川温泉に行った。

    安積は宴会のとき遊女たちに向かい 節分の豆まきだと言って、お金をばらまいた。

    遊女たちはそのお金に群がったのだが、一人だけ端然とすわっていたのがお蓮だった。



  「蓮の花は泥水に染まらず香り高く咲いて清らかだ」   



    八郎には遊女であるお連が泥の中の蓮の花のように見えたのだろう、

    「蓮」という名は、後に八郎が命名した。

    名家の嫡子である八郎の親族は当然反対するのだが、八郎はお連を妻として迎えた。

    しかし、虎尾の会結成など幕府から目をつけられていたため、お蓮までも投獄されてしまう。


     さくら花たとひ散るとも壮夫(ますらお)の 

                  袖ににほひをとどめざらめや

                             清河 八郎


    早すぎる別れ、お蓮はわずか24歳で獄中で死ぬこととなった。
      
    
 
       
    
  


Posted by asone at 15:30Comments(0)