2019年01月29日

「黎明の人」本間郡兵衛先生が生きていれば酒田は長崎や函館の様な異国情緒豊かな街になっていたかもしれない






幕末のこと

薩摩と荘内を結びつける KEYMAN がいました。

本間 郡兵衛 です。 (酒田本間家の分家出身の人)

文政時代 郡兵衛は 西欧や清国を順遊し
近代国家の建設の必要性を身をもって感じていました 
蘭学(と英語、長崎で宣教師より英語を学ぶ)の教師としてのちに幕末に勝塾や薩摩の開成所で教鞭をとります。

また、葛飾北斎の最晩年の弟子にもなり 雅号を北曜ともいう 多才な人です。
勝海舟、ジョン万次郎などとも親交がありました。

では西郷と郡兵衛との接点はあったのでしょうか?
薩摩の開成所の教師になった本間郡兵衛と
西郷隆盛に接点があったと考える方がむしろ自然です。

おそらく西郷は本間郡兵衛から荘内藩や本間家のことを聞いていたに違いないでしょう。
荘内藩を無血開城させた目的のひとつは、本間の財力に目をつけていたのではないか、
という説もあるようです。

郡兵衛は薩摩に大和方コンパニー(薩摩商社)という株式会社を設立しようと、
その資金の出資を求めに、慶応3年酒田の本間家へと向かいます。
(荘内藩による江戸薩摩藩邸焼き討ちは慶応3年の事)

戊辰戦争で幕府方についていた荘内藩は 本間郡兵衛を薩摩のスパイとみなし軟禁します。
本間本家がそこにあるというのに 行くことができない郡兵衛はある日泥酔し、薩摩の紋章
丸に十字のはいった紋付を着外に出るという無謀なことまでします。

慶応4年7月17日幽閉されていた鶴岡の親戚宅で死去、
毒を盛られたといいます 17歳で離れた故郷に戻ってきた郡兵衛 時に47歳でした。 

なんと 荘内藩が維新軍に降服するわずか2ヶ月前のことです。

次からはフィクションです。

新潟の新発田城を拠点として東北を制圧しようとしていた維新軍の中に西郷隆盛がおりました。
西郷は黒田清隆らと荘内に入り、荘内藩との戦後の処理を黒田に任せました。

「荘内は本間郡兵衛先生の故郷ぞ、手荒なことはするでないぞ!」

そのようなことを言ったかどうかは定かではありませんが、急ぎ、郡兵衛が眠る酒田の浄福寺へ向かいました。

西郷は荘内藩の落城の手柄を自分の部下に譲り、自らは親交のあった郡兵衛のもとに向かったのです。
だから、荘内藩の人たちとは会っていないのです。

一般的な伝えとしては西郷は清川から荘内に入り新発田に向かったという説がありますが、
見た人は誰もいないといわれております。

本間郡兵衛先生が生きていれば、国の重要な役職を得ていたか、岩崎弥太郎のような大実業家になっていたに違いありません。
維新後の山形、荘内、そして酒田は、大きく変わったことだと思います。
江戸時代に湊町として繁栄した酒田ですから、その位置関係からしても、きっと長崎や、函館、横浜と同じような
異国情緒あふれる街になっていたことだろうと勝手に想像しています。




  


Posted by asone at 19:14Comments(0)