2019年01月31日

1月31日 春よ来い! 逆境に負けない!


一足先に酒田日和山公園の桜2018年


1月31日の鳥海山 姿見えず




逆境に立ち向かうことこそ わが人生
 
どんな逆境に置かれても 絶対にあきらめない

自分の限界を超えるまで挑戦すれば 必ず乗り越えられる

まずは つい楽な方向へ逃げようとしてしまう

おのれの弱い心に打ち克つのだ

逆境よ もっと来い  逆境よ ありがとう!

        
ソウルメイトより   元福島大学教授 飯田史彦




あらゆる困難がむこうから消えてゆくようになるのです
  
ある集団に困難が山のように押し寄せてきて 普通ならそれに対処できずに 

「もうダメだ」と頭を抱えてしまうような状態でもあるとき 急にその困難が

次々ときえていき みんなが集団催眠状態のようになって乗りに乗って

くようになる。それで 信じられないようなラッキーな出来事が 次々と

おきていくわけです 1、2回なら偶然かもしれないし フロックかもしれません

でも 不思議なことに これが続くのです。

(フロー現象について)

   天外 伺朗  元ソニーインテリジェントダイナミックス 社長
   ※ソニーでアイボやCDを開発    


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2019年01月30日

1月30日の記事


1月30日の鳥海山


常に志をいだきつつ懸命に為すべきを為すならば、
いかなる困難に出合うとも道は必ず開けてくる。
成功の要諦は、成功するまで続けるところにある。

 パナソニック 創業者 松下 幸之助 

※松下翁も中村天風先生とご縁があったとのことです。


どんなに事業方針が確立していようと、
また経営方針が完備していようと、
一番のトップに立っている人々の
パーソナリティーに多少なりとも欠陥があったら
どうなるだろうか。

健康、それから運命に対する扱いが
しっかりできる人間でなかったら、
会長だとか社長だとかいったところで、
それぞれの名前だけにすぎない。

それがために、
「どこまでも人間をつくれ。
それから後が経営であり、
あるいはまた事業である」
ということを私、しょっちゅう言ってるんです。

  中村天風 一日一話より  


Posted by asone at 17:15Comments(0)

2019年01月29日

「黎明の人」本間郡兵衛先生が生きていれば酒田は長崎や函館の様な異国情緒豊かな街になっていたかもしれない






幕末のこと

薩摩と荘内を結びつける KEYMAN がいました。

本間 郡兵衛 です。 (酒田本間家の分家出身の人)

文政時代 郡兵衛は 西欧や清国を順遊し
近代国家の建設の必要性を身をもって感じていました 
蘭学(と英語、長崎で宣教師より英語を学ぶ)の教師としてのちに幕末に勝塾や薩摩の開成所で教鞭をとります。

また、葛飾北斎の最晩年の弟子にもなり 雅号を北曜ともいう 多才な人です。
勝海舟、ジョン万次郎などとも親交がありました。

では西郷と郡兵衛との接点はあったのでしょうか?
薩摩の開成所の教師になった本間郡兵衛と
西郷隆盛に接点があったと考える方がむしろ自然です。

おそらく西郷は本間郡兵衛から荘内藩や本間家のことを聞いていたに違いないでしょう。
荘内藩を無血開城させた目的のひとつは、本間の財力に目をつけていたのではないか、
という説もあるようです。

郡兵衛は薩摩に大和方コンパニー(薩摩商社)という株式会社を設立しようと、
その資金の出資を求めに、慶応3年酒田の本間家へと向かいます。
(荘内藩による江戸薩摩藩邸焼き討ちは慶応3年の事)

戊辰戦争で幕府方についていた荘内藩は 本間郡兵衛を薩摩のスパイとみなし軟禁します。
本間本家がそこにあるというのに 行くことができない郡兵衛はある日泥酔し、薩摩の紋章
丸に十字のはいった紋付を着外に出るという無謀なことまでします。

慶応4年7月17日幽閉されていた鶴岡の親戚宅で死去、
毒を盛られたといいます 17歳で離れた故郷に戻ってきた郡兵衛 時に47歳でした。 

なんと 荘内藩が維新軍に降服するわずか2ヶ月前のことです。

次からはフィクションです。

新潟の新発田城を拠点として東北を制圧しようとしていた維新軍の中に西郷隆盛がおりました。
西郷は黒田清隆らと荘内に入り、荘内藩との戦後の処理を黒田に任せました。

「荘内は本間郡兵衛先生の故郷ぞ、手荒なことはするでないぞ!」

そのようなことを言ったかどうかは定かではありませんが、急ぎ、郡兵衛が眠る酒田の浄福寺へ向かいました。

西郷は荘内藩の落城の手柄を自分の部下に譲り、自らは親交のあった郡兵衛のもとに向かったのです。
だから、荘内藩の人たちとは会っていないのです。

一般的な伝えとしては西郷は清川から荘内に入り新発田に向かったという説がありますが、
見た人は誰もいないといわれております。

本間郡兵衛先生が生きていれば、国の重要な役職を得ていたか、岩崎弥太郎のような大実業家になっていたに違いありません。
維新後の山形、荘内、そして酒田は、大きく変わったことだと思います。
江戸時代に湊町として繁栄した酒田ですから、その位置関係からしても、きっと長崎や、函館、横浜と同じような
異国情緒あふれる街になっていたことだろうと勝手に想像しています。




  


Posted by asone at 19:14Comments(0)

2019年01月28日

1月28日 勝つ前に勝ってしまったと思った


今日の姿を見れず! 2018年春の鳥海山

全豪オープン 大阪なおみ選手のインタビューから

「勝つ前に勝ってしまったと思ってしまった。」
(2セット目の様子について)

「3セット目の時は感情のスィッチをオフにするよう心掛けた。」
(2セット目を逆転され涙目でトイレブレークを行い3セット目に入る時の様子について)


中村天風先生の心身統一法を教えて下さる先生は、常日頃から
「消極感情の統御」だと教えてくださいます。

心をよく観察し消極的な感情が湧き出して来たらそれを統御する。
全豪オープン優勝を通して、大阪選手は高レベルの心の客観視と
心身のコントロールの仕方を会得したのでしょう。




多くいうまでもなく、人間というものは
いかなる場合にもその人生に活きる際、
慌ててはいけないのである。

というのは、人生に生ずる錯誤や過失と
いうものは、その原因が、心が慌てた
ときに多いからである。

慌てるというのは、またの名を周章狼狽
(しゅうしょうろうばい)というが、
これは心がその刹那放心状態に陥って、
行動と精神とが全然一致しない状態を
いうのである。

心がこうした状態に陥った時というものは
意識は概(おおむ)ね不完全意識になっている
のである。

中村天風 一日一話より
  


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2019年01月27日

1月27日 今日は姿を見れず


今日は姿を見せず! 画像は26日夕方撮影



苦難に対しては真正面から立ち向かい
  
さらに精進を積む

また成功に対しては謙虚にして驕らず

さらに真摯に努力を重ねる

そのような日々

たゆまぬ研鑽に励むことによってのみ

人間は大きく成長してゆくことができるのです。



成功と失敗の法則  致知出版社 より 
京セラ創業者 稲盛 和夫
(稲盛さんもその著書の中で中村天風先生について
 書いております。)



たとえば植木に肥料をやるにしても
必要だからといって、やたらに肥料を
ぶっかけても成長しません。

植木が肥料を欲しがっている時にかけて
やらなきゃだめなんです。

人生に関する話もこれと同じで、
結局、人間となる場合に必要な肥料も
やはりかける季節があるんです。

その人が人生を、ほんとうに求めている
状態の時でないと、与えたものが心の
なかで、よく噛みくだかれないという
結果がきてしまうんです。


中村天風 一日一話より



  



Posted by asone at 16:05Comments(0)

2019年01月26日

1月26日 全国的な冷え込み Cold Japan !!!


この天気のため鳥海山の姿を見れず!


夕方白く雄大な姿を少し見せてくれました 助手席からの画像です。




良い企業を偉大な企業に変えるために必要なリーダーシップの
型を発見したとき、われわれはおどろき、ショックすら受けた。
派手なリーダーが強烈な個性をもち、マスコミで大きく取り上げられて
有名人になっているのと比較すると、飛躍を指導したリーダーは火星から
来たのではないかと思えるほどである。
 
万事控えめで、物静かで、内気で、恥ずかしがり屋ですらある。
個人としての謙虚さと、職業人としての意志の強さという一見矛盾した
組み合わせを特徴としている。


革命や、劇的な改革や、痛みを伴う大リストラに取り組む指導者は、
ほぼ例外なく偉大な企業への飛躍を達成できない。

  ジェームズ・C・コリンズ ビジョナリーカンパニー②より








人生に何か不足なところがあって、もっとそれを完全なものにしたい
と思うことがあるんなら、いちばん手っ取り早く、それが自分のものに
なった姿を理想の上に描き出すことです。

体が悪かったら、体の悪い状態をしょっちゅう考えないで、もう
治った健康な状態を自分の理想の姿の上に描かなきゃ駄目だよ。
運命またしかり。


絵を画いたり、字を書いたりする時は、出来上がった姿を心に描く
からできるんだね。

出来上がった後の姿を心に描かないで書いてる字でも絵でも、見るに堪えない
じゃないか。

中村天風 一日一話より

  


Posted by asone at 09:11Comments(0)

2019年01月25日

1月25日今日の鳥海山




朝、束の間の顔出し ひさびさのリアルタイムの鳥海山





一体現代の多くの人は、人間というものが
苦しむことによって偉大になり、同時に
苦しむことによって尊いものを認知し、
尊いものを知り得てはじめて真に尊く
なり得るのであるということを、
知らないようである。

しかもそれが求めることより
願い続けることから作為されるという
ことを…。

中村天風 一日一話より  


Posted by asone at 09:22Comments(0)

2019年01月24日

1月24日① 大河ドラマ「せごどん」にも出ていた若き荘内藩士 本日ブリザード!


晩秋の鳥海山

 
本日は、地吹雪 何も見えません!

 

    若き荘内藩士を誇りに思い はるか遠い薩摩の墓地に手を合わせる私です


    
       西郷隆盛の命を受けた黒田清隆一行より手厚い保護を受けた

       荘内藩士が西郷隆盛の遺訓集を編纂し、全国を行脚して世に広めました。 

       それが 「南州翁遺訓」 

    

        時代は江戸から明治に変わり敵対していた旧荘内藩士たちは、

       恩を受けた薩摩の西郷の教えを請いに薩摩へ向かいます。

       中には西郷の私学校へ入学(その時代は留学)する人もいました。

       西郷は西南の役で最後を迎えるわけですが 2人の若い荘内藩士も

       命を落としています。 
       (NHKの大河ドラマ 「せごどん」にも荘内藩士2人が出てくる場面が
       一場面ですがありました。)

                伴 兼之  20歳 

                榊原 政治 18歳

       明治10年 西南の役が起こると、

       「伴、榊原 君たちは 荘内藩士だ この戦とは関係ない
        国へ帰りなさい」 と幾度も言われます。

       ※二人とも翌年にはフランスに留学することまで決まっておりました。

  
       二人は そんな 説得をやすやすと受け入れるものではありません

      「 受けたご恩、お返しするのみ」  戦に向かっていったわけです。

        
      若き荘内藩士を誇りに思い はるか遠い薩摩の墓地に手を合わせております。  


Posted by asone at 16:33Comments(0)

2019年01月24日

1月24日② 中村天風先生の教えから

天風教義の積極心というのは恒に

心の平安を確保することであるが

同時に如何なる場合にも寛容で

あることを忘れてはならない


中村天風 「叡智のひびき」より


私は数年前から、天風先生の教え「心身統一法」を学んでいます。

天風先生の師のお一人である頭山満翁も西郷南州先生を敬愛しておりました。

本日のブログの続きです。
  


Posted by asone at 16:26Comments(0)

2019年01月23日

1月23日 幕末の志士 清河八郎  いつもと違う鳥海山


今日も悪天候のためその姿を見せてくれません   秋の鳥海山 (富士山の様に見えます)

        【 幕末の志士 清河八郎 】
       

    18歳で江戸に出て東條一堂塾・安積良斎塾・湯島聖堂・などの当時の最高学府
 
    に学ぶ(東大の前身)剣は千葉周作の玄武館に学び北辰一刀流兵法免許を得

    弱冠25歳で神田に清河塾を開いた。江戸広しといえども、文武両道の塾は清河塾

    ただ一つといわれた。

    清河塾には憂国の士が集まり、尊王攘夷の志のもと山岡鉄舟らと「虎尾の会」を

    結成、のちに 「浪士組」を結成する。八郎の死後浪士組が新撰組と新徴組に分かれてゆく

    明治維新は薩摩・土佐・長州・関西雄藩の志士により進められたものであるが、

    八郎はこれらの志士に先駆けて常にその主導的活躍をした主役であった。


    【八郎と妻・お蓮】

    お蓮は医者の四女として生まれたが、家が貧しく幼くして養女に出され、17歳で

    遊郭に売られた。

    八郎が同士 安積五郎をつれ江戸から清川に帰郷していた時、湯田川温泉に行った。

    安積は宴会のとき遊女たちに向かい 節分の豆まきだと言って、お金をばらまいた。

    遊女たちはそのお金に群がったのだが、一人だけ端然とすわっていたのがお蓮だった。



  「蓮の花は泥水に染まらず香り高く咲いて清らかだ」   



    八郎には遊女であるお連が泥の中の蓮の花のように見えたのだろう、

    「蓮」という名は、後に八郎が命名した。

    名家の嫡子である八郎の親族は当然反対するのだが、八郎はお連を妻として迎えた。

    しかし、虎尾の会結成など幕府から目をつけられていたため、お蓮までも投獄されてしまう。


     さくら花たとひ散るとも壮夫(ますらお)の 

                  袖ににほひをとどめざらめや

                             清河 八郎


    早すぎる別れ、お蓮はわずか24歳で獄中で死ぬこととなった。
      
    
 
       
    
  


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